SecondLifeってば
昔、英語でコピーを書けと言われ、そんな無茶なと思いつつ、書くのは試供品のワゴンに掲げるPOPで「FREE」に続くアオリコピーということなので、いろいろ考えた。まぁ、考えても限りがあって、結局、ソフトバンクモバイルの「¥0」みたいなコトをしようと。これって、コピーライターであれば普通に考えつくアイデアである。
けれど展開が東南アジア全域であり、通貨が定まらないので通貨記号が書けない。そこで「0 price!」…一応アオったつもり。結局、これは不採用になったが、後日談として、現地法人のアメリカ人が「0 price!」の意味が理解不能だったらしい。
FREEは日本語では「自由」だ。これは福沢諭吉がFREEの概念に触れて訳したというエピソードもあるが、訳すと言うより創作した単語に近い。それで、その概念とは…
自らを由(よし)とする
なるほど。
理解不能に陥ったアメリカ人にしてみれば、試供品の「FREE」は、無料とかそういうことではなく、積まれた品を手に取り、自らを由とできるかどうかが肝要だったということだ。
「自らを由とする」とは、自分で決めて行うことは常に正しいので今後もそれに邁進するというプラグマチズムの精神そのものだ。自分を信じてフロンティアに乗り出したピューリタンたちにとって、プラグマチズムこそ活力だ。
昨今話題のSecondLife。誰かと話をすると二言目にはこうなる━
「あんなもん自由度が高すぎて何をしていいのかわからないからつまらない」
それを言ってしまうと身も蓋もなくなる。なにせあれはピューリタン連中がこしらえたヴァーチャルワールドなのだから、自らを由とすることこそが求められる。
中学生で渡米した人から聞いた話。クラスで紹介された後、担任の先生が「あなたを原点としてどの方向に物差しを伸ばしているのかクラスのみんなにプレゼンして頂戴」って言われたとか。
「原点? 物差し? プレゼン?」
サッパリわけわからずに、つい「クラスのみんなは?」のようなことを質問すると、先生は笑いをこらえるのに必死になったという。先生にしてみれば「みんなは?」と問う日本人中学生は「人まねこざる」に見えたのかも知れない。
自らを由として、自分を原点にする物差しを伸ばしたり縮めたりできている人は、SecondLifeにおいて何も苦労はしない。ものすごく古い言い方になるけれど、今の時点でSecondLifeを満喫できている人は、おそらく血中ピューリタン濃度が高いのではないか? (やっぱり古くさい言い方だった…)
この感じは、今から十数年前、プロシューマーという言葉が誕生した頃のMacユーザーの文化に近いものがある。あの頃のMacユーザーも、多くの場合、血中ピューリタン(もういいってば!)…まぁとにかく、その値が高かった。自分の目的を持って何かを為すべし、常にそう鼓舞されていたっけ。
そういえばCentris610買ったときに付いてきたCD-ROMセットが、ラクダで砂漠を旅する白人姉ちゃんとか、サンディエゴ動物園でゴリラの赤ちゃんとともに生きる飼育係の話とか、なんかもうピューリタンのニオイがプンプンするタイトルばかり。がんばって人生開拓しようね、みたいなことでした。
結局、Macの場合、うまい具合に日本化が進んだように思う。たとえば「モリサワのフォント」とかね、もうMac使わざるを得ない状況が生まれた。思えば、ピューリタン的Macの世界と、実務的なモリサワフォントの間隙を埋める役割を果たしていたのがハイパークラフトのような、ちょっとだけツウな雰囲気でまとまったリアル店舗や、実務Macにも目配せした『MAC LIFE』のようなメディアの存在だったのではないか。ハイパークラフトの店頭には、商品という形をした“つなぎ”の言葉が羅列されていたのだ。
さてSecondLifeだけど、Macと同じく、何かしらの“つなぎ”は必要だと思う。近く日本語化されるというが、それだけじゃダメで、ちゃんと「日本化」されないと、血中…(もういいって!)の低い人には依然と入りづらい世界に変わりない。
じゃあ、どんな“つなぎ”がいいんだろうか。
日本人は人間関係をも自我の内側に取り込んでいると指摘される。それはネットワークコンテンツの現場に置き換えると、オリジナルの生産ではなく、派生的な再生産を志向するということだ。生産2割に対して再生産8割…そんな感じだろうか。もっとも「生産2割」を生むための人柱的な生産も必要で、そこでは「人柱覚悟の勇気」が求められる。最初から正解を狙いたいとする昨今の風潮からすると、そこがちょっとキビシイかも。
Macの頃は「Plug and Play」ならぬ「Plug and Pray」(つないだら祈れ!)と自分を笑う余裕があったものねぇ。

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